2007年11月19日

クーデター 〜その5〜

5日目の朝だったと思います。
寮の電話がけたたましくなりました。

本社の対策本部からの電話です。
本社  『今、NHKのニュースで開放されるといっているが本当か?』
わたし 『よくわかりません。ちょっとテレビつけてみますね。』
・・・歌番組でした。
しばらくしてニュースが始まりました。
前の日の10時のニュースです。
らちがあきません。

所長から電話がありました。
どうやら、開放されるというのは本当のようでした。
すぐにマニラガーデンホテルに電話を入れましたが、すでに開放の混乱状態で誰も電話に出てくれません。

本社に指示を仰ぎました。
『NHKでは、解放された人たちは、バスでDutyfree Shopに移動するといっている。すぐにでも行ってくれ!』
ということでしたので、会社の車を運転して一人で出かけました。
エドサ通りはまだ交通止めが続いていましたので、ボエンディア通りの裏のほうを通ってDutyfreeにむかいました。
Dutyfree Shopは、空港のすぐそばで今はカジノになっている大きな建物です。
マルコスの時代にカジノとして建てられ、今もカジノとして利用されているのですが、アキノ大統領のこの時代はDutyfree Shopとして営業していました。

だいぶ遠回りをしましたが、何とかカジノに到着しました。
カジノは解放された人たちでごった返しています。
さすが、NHK・・・ニュースは本当でした。
実際、自分の目で見るまでは半信半疑だったのです。

建物中に入るとカナダ大使館の人が大きな声で、『カナダ人はいませんか??』と叫びながら同胞を探していました。
それ以外にも国旗を持った各国の大使館職員が来ていました。

さて、日本大使館は・・・・
ずいぶん、さがしまわって隅のほうまできたところ、日の丸の旗を置いた机に大使館の職員と思しき人が2名・・・・たった2名ですよ└(T_T;)┘・・・・座っていました。
そこに行って、実はOXさんという方がマニラガーデンで閉じ込められて解放されてきたはずなんですが・・・というお話をしましたら、
『まことに申し訳ないが、名前は一切把握しておりません。』
といわれてしまいました。
開いた口がふさがらないというのはまさにこういう状態を言うんだと思います。
特に、ほかの国の大使館職員が献身的に自国民保護のために動いているのがすぐ隣で見えるのでなおさらです。
『何かわかりませんか?』
と食い下がったら、
『ほとんどの方は、日本航空の臨時便で日本にお帰りになったはずです。パスポートを持っていない方には、緊急の一時旅券を発給しました。日本に帰らない方は、フィリピンビレッジホテルに行った人が多いと思います。』
ということでした。
臨時のパスポートを発行しておいて名前を把握してないのかい?と思いましたが、一応礼を言ってフィリピンビレッジホテルに向かうことにしました。

フィリピンビレッジホテルからいったん寮に電話をしました。
見積もり課長から電話があったそうです。
JALの臨時便で帰国するということでした。
見積もり課長は、パスポートを会社の金庫で保管していましたので、パスポートを持参していませんでした。
臨時の一時旅券を発行してもらったのに、それでも名前がわからなかったんですよ・・・

課長の話では、監査役にも一緒に帰国しましょうと勧めたそうですが、
『クーデターくらいで監査を中止できるか!』
といって、閉じ込められている間に仲良くなった某大手商社の駐在員と一緒にホテルを探しに行ったそうです。
本社の対策本部では、本人の健康状態も心配だし家族の人たちも心配しているので、必ず一旦帰国するように説得してほしいといっているとのことでした。
困った人です・・・。
所長からも連絡が入っていました。
ロハス通りのホテルにチェックインするということでした。
現在の日本大使館のすぐそばのホテルです。
フィリピンビレッジホテルも人でごった返していました。
電話の様子では、ここに監査役がいることは考えられません。
所長のチェックインしたホテルがすぐそばだったので、一旦そこに向かうことにしました。

ロハス通りのホテルでやっと所長に会うことができました。
所長も奥さんもだいぶ疲れている様子でしたが、思ったよりは元気でした。
解放されるときに、一緒に閉じ込められたお客さんのプロジェクトチームの常務が
『所長、逃げると思われないように、ゆっくりと散歩しているような感じで行きましょう。』
といって、ゆっくりと落ち着いたふりをしてみんなで一緒に逃げたようです。
もう解放されたのだからそんなことを気にする必要もないのですが、そのときはよほど怖かったんだと思います。
もちろん、所長のところの二人のメイドとなぜ一緒にいるのかわからない女性も一緒でした。
彼らはセンチュリーパークシェラトンホテルに向かったそうです。
私が所長のホテルに向かっている間に、所長は寮と連絡を取ったようでした。
監査役とやっと連絡が取れて、フィリピンプラザホテルに商社の方と一緒にいるということでした。
『全然帰るつもりがないようだ。困ったもんだ。』といっていました。

所長には、後でまたよりますという話をして、フィリピンプラザに向かいました。
ここで、やっと監査役に会うことができました。
このホテルもいっぱいです。
部屋がいっぱいでキャンセル待ちなのだが、どうも取れそうにないので何とかしてほしいといわれました。
私は、これからお客さんの様子を伺いにセンチュリーパークシェラトンホテルに行くので、そこで部屋があるかどうか聞いてみるという話しをしました。
『監査を中断して、一旦日本にお帰りください。本社の対策本部からもお願いするように言われています。』
という話をしましたが、まったく聞く耳を持っていないようです。
お客さんの様子も心配なので、監査役を置いて、センチュリーに向かいました。

センチュリーパークシェラトンというホテルは、全日空が営業協力をしているホテルで、ハリソンプラザのそばにあります。
当時、日本人のマネージャーがいました。
この方が、解放された日本人のお相手で大変忙しそうにしていました。
お客さんの一行にはすぐ会うことができました。
皆さん、元気そうでしたがひげをぼうぼうにしています。
『この方が臨場感があっていいでしょう』といっていました。
日本の空港でインタビューを受けるかもしれないと能天気なことをいっていました。
ひげは、お世辞でも似合っているとはいえませんでしたね。
なぞの女性は、このときにはもう一緒ではありませんでした。
この段階では、皆さんの部屋も確保できていませんでした。
日本人マネージャーに事情を話して、もう一部屋何とかお願いをして、またフィリピンプラザに戻ったのです。

長くなってきました。
つづきます。
わーい(嬉しい顔)






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posted by マニラのおぢさん at 12:11| Comment(2) | TrackBack(0) | おぢさんの昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
危機感が個人によって違うんですね。
一番心配してたのは日本サイドですか…

情報の認知度によって変わるのでしょうかね。
Posted by 千葉のおぢさん at 2007年11月19日 16:18
1989年のクーデターのお話し、懐かしく読ませていただきました。私もあの時、日航マニラガーデンホテルで5日間?軟禁されておりました。その時の宿泊費の請求が、翌年3月頃にきて、「支払わなければ法的手段に訴えます」って内容の留守電がはいっており(日航ホテルの人から日本語で)、素直に払ってしまいました。今から思うと、あのときの宿泊費は払う必要なかったんじゃないかとも思いますが。
クーデターなんて日本の感覚ではあり得ない話しですもんね。今から思うと、得難い貴重な体験でした。
Posted by Nagayama at 2012年10月10日 13:31
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