2007年09月28日

赴任した頃の会社の様子

私がフィリピンに赴任したとき、会社には所長のほかに二人の現地採用の日本人がいました。

ひとりは、サンミゲール(ビールです!)が大好きな人で、これさえあれば満足という感じ・・・。
いつもよっているような・・・そうでもないような。
もともとは別な建設会社で土木エンジニアとして、中東で勤務をされていました。
ご存知の方も多いと思いますが、中東はお酒も飲めないし、何かとストレスのたまるところです。
勤務を終えて、『さあ帰国!』というときに、昔からの友人がいるマニラに立ち寄りました。
そのままサンミゲールと奥さんの魅力にメロメロになって、帰国しないで居ついてしまったそうです。
本人がそういっていました。
マニラにいついてからしばらくは遊んでいたようですが、そのうちに『遊んでいても仕方がない!』ということになり、その友人の紹介でローカルの建設会社にし勤務していました。
この建設会社の社長が私の上司の所長に『日本人がいるけど面倒を見てくれないか?』と頼んできたのです。
その頃、ちょうど大型の工事を受注したこともあって、雇うことに決めたそうです。
英語がすごく上手な人で、普段使わないような難しい単語をよく知っている人でした。

もう一人の人は、もともとうちの会社にいた人です。
大学を卒業して、新卒でわが社に入社して、1975年頃に港の工事でフィリピンに赴任しました。
工事中にフィリピン人の奥さんと知り合い、工事完成後にいったん帰国して会社を辞めてからフィリピンに戻ってきました。
エルミタに炉辺焼きのお店を出して、これが大当たりして、一時はすごく羽振りがよかったそうです。
ところが、ばくちに手を出して全部人手に渡り、その日の食費にも困るような日々を送っていました。
そのころ、彼を目にかけていた上司が偉くなって常務になっていました。
どうにもならなくなった彼は、この常務に手紙を書きました。
常務から所長に『何とか彼を探して力になってやってほしい』という連絡が入り、わが社に戻ってくるようになったそうです。
所長が合って話を聞いたときには、パスポートもないような状態でした。
なにかと胡散臭い雰囲気がただよう親父でした。

マルコス大統領が失脚し、ピープルズパワーの革命の頃、まったく仕事のない時期が続きました。
アヤラ通りでは、毎日のようにデモ行進が繰り返され、出勤しても何も仕事のない職員はいらなくなった紙を細かくちぎって紙ふぶきを作り、デモ隊の上からまいていたそうです。
ローカルのトップがよくそんな話をしていました。
本社もそろそろ帰ってきたほうがよいということになり、所長に『事務所をたたんで帰ってこないか?』という打診がありました。
所長は、『せっかくここまでがんばってきたのにもったいない。もう少しやらせてほしい!』という手紙を社長宛に送ったそうです。
マニラは、わが社が始めて海外に進出した場所でそれなりに重要な拠点でした。
所長の手紙に会社は、期限付きでOKを出しました。

彼も必死でがんばったんだろうと思います。
日系の工場の拡張工事を受注しました。
そして、上の二人を雇うことになったのでした。
私は、その頃はインドネシアの別の工事現場にいたのですが、出張で当時の海外事業部長が来たときに、マニラで始めて建築の仕事が取れたといって喜んでいました。

くせのある所長さんで、上司のいうことなんかあまり聞かない人でした。

お昼の食事のあと、所長室に呼ばれます。
『おい、ドアを閉めろ!』
ドアを閉めます。
『さぁ、寝るぞ!夜は忙しいんだから。個人の健康は会社が面倒見てくれるわけじゃないんだから・・・』といって、二人で小一時間、昼寝をするのが日課になっていました。
親分肌の面白い人でした。

わーい(嬉しい顔)

posted by マニラのおぢさん at 08:10| Comment(0) | TrackBack(0) | おぢさんの昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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